レポート 2015.10.24
第8回 命輝く医療とはシンポジウム 〜生死の隙間で起こる奇跡〜は
おかげさまを持ちまして無事に終了することができました。
ご参会のみなさまよりたくさんのメッセージをいただき
この場をもちまして、深くお礼申し上げます。
また皆様とお会いできる日を楽しみにしております。








IHAN会員ホリスティックナース篠崎由羅さんが当日の様子をレポートしてくださりました!
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第8回命輝く医療とはシンポジウム 10月24日(土)に開催されました「命輝く医療とは 〜生死の狭間で起こる奇跡〜」に参加させて頂きました。
とても内容の濃いシンポジウムで、「ここまで『生死』についてを徹底して掘り下げた企画は、そうそうないのではないか」というのが率直な感想です。
というのも、今までの時代では大体「生死」を語るのは医者か宗教家と役割が分担されてしまっていましたが、このシンポジウムではそうではなく、それぞれの立場にある人達が、多角的に生死を語っていくという、非常に革新的なプログラムが組まれていたからです。
明らかに、今「生死」の領域が変わりつつあるのだ──ということを実感出来たイベントでした。
例えば、ことのはかたりの「木村まさ子」さんは、自分が母親を看取ったという体験を元に、生死について新たな気づきを得て、その体験についてを分かりやすく、また心に訴えかけられるような言葉で語って下さいました。
医療者視点ではなく、「見送った側が感じた素直な言葉」であったことが印象的であるのと同時に、看取りの現場では様々な立場の人達がそれぞれの視点や感覚で向き合っているのだということを思い出させてもらえました。
また、長堀優先生は育成会横浜病院院長という医療者としての視点で、医療現場に括られた「生死」を語るのではなく、「科学が証明出来ない理不尽な例」をあげて、科学と非科学といった二元論の矛盾に堂々と矢を放っていました。
先生が仰った「非科学的疑問」は、
●抗がん剤の効き目が違う人がいるのは何故なのか
●世の中は、何故不公平なのか
ということ。
他にも挙げれば、科学的なことで証明しきれない「世界の理不尽」は沢山あると思います。その矛盾に的を射て、輪廻転生がなければ説明出来ないことの理由や、実際に退行催眠や瞑想時の脳波がどのように違うかなどをデータで証明して説明してくれるなど、「目に見えない領域を科学的に証明することは可能である」という可能性について示唆してくださった内容であったと思います。
いわば、スピリチュアルや精神世界をあえて科学の領域に当てはめるのであれば、それは非科学ではなく「未科学」であって、既知の科学よりも高度であるが故に、未だかつて私たちが証明しきれていないだけの話に過ぎないのではないか──そう気づかされる内容でした。
「子孫へのラブレター協会」代表の井上祐宏さんは、会場にいる皆さんに実際に「明日、目が覚めないとしたら大切なことを誰に伝えたいか」というメッセージを使って、実際のワークを行いました。
私たちは、「昨日の日常が今日も続き、今日と同じ日常が明日も続いていくだろう」と、無意識に信じてしまっています。(個人的に私は「日常信仰」と呼んでいます。)
しかし、そんな保証はどこにもなくて、「いつ」その日常が崩壊するか、或いは、日常の中で当たり前のように存在していた愛する人を失うことにより、その日常が「今までの日常でなくなってしまうこと」なんて実は往々にしてあるわけです。
そんな中、「もし」自分が明日、目が覚めなかったとしたら、誰に何を伝えたいか…
そのことを考えたら、きっとそこからの人生は大きく変わっていくのではないか──そこに着眼した井上さんは実際に数百人の方にこれを行い、その中で数々の奇跡が起こるのを目の当たりにしたそうです。
私もこの「子孫へのラブレター」、ぜひやってみたいと思いました。
(興味のある方は、下記に参照URLを掲載していますので、ご確認ください。)
お昼ご飯の時間も「ランチョンセミナー」として、国際ヒーリング看護協会の理事長である中ルミさんの「ヒーリングタッチ」を実践しての報告や、セルフヒーリングの紹介、マジックショーなどもある、本当に「盛りだくさん」でした。
午後は、胎内記憶の池川明先生が「生まれてくる子ども達と母親の、とても深い絆」についてお話されました。
また、「ベビーマッサージ」を3000人以上の赤ちゃんにしてきたという看護師の小塚友美さんと池川先生の対談で、「今、生まれてきている赤ちゃんは、以前の赤ちゃんと魂的にどこか違う」というお話もされていました。
午前中は主に「死」で、午後は「生」のような印象でしたが、私はむしろ両者の話を聞き「ああ、生も死も実は『同じ』なんだな」ということを実感せずにいられませんでした。
だから、「死を語る」時は「生を語る」時でもあるのでしょう。
そのため、死について蓋をしたり、わざと避けて見てしまうということは、同時に「自分の生について蓋をし、避けて見ている」のと同じことになってしまうのだということを感じました。
死への観念の欠如が生の希薄を産み、同時に魂の無気力化を促す──そんな図式があるのかもしれません。
午後のパネルディスカッションでは、先述したように「様々な視点の方々が『幸せな死に方』について語る」という、今までにはそうそう例がなかった貴重なディスカッションでした。
医療者である池川明先生と長堀優先生、看護師である中ルミさんや田中奈々美さん、小塚友美さん、ことのはかたりの木村まさ子さんに、「生死〜いきたひ〜」というドキュメンタリー映画の監督をした長谷川ひろ子さん、子孫へのラブレターを推奨する井上祐介さんというように、様々な視点において「幸せな死に方」について多角的に見つめるディスカッションが行われました。
この中で私が印象的だったのは、「『看取り』は、日本独特なものかもしれない」ということでした。
私が今回準備している高齢社会に関する二冊の本の中で、「日本民族にあった高齢社会の展開」について模索しようと思っていたところでした。世界各国、様々な民族や文化があり、そうした背景があるからこその高齢社会に違いがあることも多いと思うのです。
例えば、その中で長堀先生が話題にした「アメリカは寝たきりの高齢者が少ないというが、それをいきなり日本に応用するのは乱暴のような気がする」という言葉に私も同意しました。
以前聞いた話によると、アメリカでは血液透析をしている場合、ある一定の年齢(例えば90歳など)になると、透析を打ち切ってしまうという話を聞いたことがあります。
ただ、まだ充分意識をもって活動出来るうちから治療を放棄するのはやりすぎにしても、どこで線引きしていけば良いのかという課題は、まだまだ現代の医療に残されていると私は感じています。
今回参加してくださった方は100名近いと伺っていますが、皆さん「これからの医療の可能性」について、何かしらの手応えを掴んで下さったのではないかと思います。
今後の医療は、医者や看護師だけが展開していくものではなく、患者さん本人やご家族、セラピスト、ヒーラー、場合によっては宗教家など、様々な方が参画していくものとなっていくことが理想ではないかと個人的に感じています。
何故なら、生死は「肉体だけ」に限るものではなく、「魂」に関わってくるものだからです。
スピリチュアルケアというのは「ただの心の籠もったケア」ではなく、「実際に、その人の魂に触れるようなケア」でなくてはならない、私はそう考えています。
まだまだ「肉体だけ」に視点が行きがちな現代医療ですが、もうすでに医療は変わりつつあるのだということを皆さんにもご存じ頂ければと思います。
また、「国際ヒーリング看護協会」では、看護師としての立場でホリスティックな医学を探究し、魂の医療を掘り下げています。
ご興味のある方は、以下からご参照ください。
国際ヒーリング看護協会 公式HP:http://npo-ihan.net/
IHAN会員ホリスティックナース篠崎由羅さんのブログはこちらです
引用ブログ:http://lets-go-home.jp/blog-entry-7.html